🔥やけくそ💩

某医学生のぼやき帖

楽だ!

三連休から二日平日を挟んでの読ん連休二日目の晩、僕はブログを書いていた。彼女が実家に引っ込んでしまったせいで、極めてヒマなGWになってしまったのだ。

EL準決勝アトレティコvsアーセナルを観ながら寝て、昼過ぎに目覚めた。家の食材の蓄えがなくなり腹が減って仕方がないが空腹過ぎても動く気にもならない。そんな危険な並行状態から根性でシャワーを浴び洗濯機を回し家を出てつけ麺屋へ行った。帰りにスーパーで食料などを買い、洗濯物を干した。今日のノルマは終わったのだ。

ぼんやりとニコ動やTwitterやはてぶや眺めて居たら、はてなの通知に読者登録があったではないか。誰だか知らないけどありがとうございます。読まれるものとしてあまり意識してはこなかったけど、いざそういうアクションがあると分かると気を回さずに居られないあたり、自分は心配性でアガり症な自意識過剰であることを自覚する。

記事を書くときのネタと量の目安は、自分の考えたことがある程度すべてこのブログにに記述されるようになるかが基準になっている。一年分読めばぼくの一年分がなんとく把握できるようになっているのが好ましい。なので必然的に前回からどういうことがあったかを隈なくかつ簡潔に書かないといけない。「こころのお便り」という呼称がしっくりくる。

結局春休みは「春休みに何もしないとはいかがなものか」と思っているうちに終わった。つまり何もしなかった。プリパラを全話観たり釣りに行ったりしたが、何かと呼べるようなものではないと考えているわけだ。いや、これではない技術的なネタを透過するブログをリニューアルしたりしたのは「何か」と言えなくもないか。ただ実際のところ作ってしまうと作ってしまったことに満足してあまりそちらには書くにならなかった。構想から数ヶ月の大作だが、結局今こうしてはてなブログに書いているというくらいには上手く行ってない。だからこそ作業量のわりに「やった」という実感が持ちにくいのかもしれない。

 

春休みが終わって前期が始まってからは、我ながら気持ち悪いくらいにちゃんと講義に出席している。今のところすべての試験に通っている。講義に休まず出てれば前日はおろか当日の午前に過去問を眺めるだけで通ってしまうのだから、言ってしまえばラクチンである。先日、ある試験の合格者の掲示に自分の番号がないことがあり、単なる掲示のミスで後日修正され無敗記録は継続を再開したのだが、その日は受かった感触のあった試験に落ちたショックがあって少なからず落ち込み、その「ぬか悲しみ」は返して欲しいと思うようなことはあったが、困難と言えばその程度だ。

勉学の懸念事項は、前期の終わりにあるCBTだ。それようの対策をしないと通るのは不可能なので、いつかはそれようの勉強を開始しないといけないし、最近はポツポツと問題集を広げる人が講義室に現れだしてはいるが、なかなか自分の尻に火が点く気配はない。

 

講義に全部出席すると言ってもすべての時間じっと座っているのは難しい。かと言って寝てしまうのは言語道断で、狭い椅子で丸まって寝るくらいなら帰ってベッドで寝るべきなので、少なくとも起きているべきだと思っている。ではどうするかというところで、最近は講義中に、本を読んでいる。講義の内容は音としてぼんやりと入ってくる。注目すべきところではトーンが変わるのでチラチラと顔を上げて配布資料のテストに出そうなところにメモを付けたり線を引いたりする。そんな感じの受講スタイルがマイブームだ。

本は今は「羊をめぐる冒険」の下巻の途中を読んでいる。やっぱり村上春樹の小説は面白いし、何より読みやすい。そしてあらゆる表現がいちいちおしゃれで読んでいて気持ちが良い。思考よりもっと深い、現実に隣接した感性の部分に訴えかけてくるものがある。良い食事が肉体を健康をもたらすものなら、心の健康には良い言葉が必要なんだなと思う。

現実的な習慣の話、少し座って待つ時間があれば、スマホを眺めるのではなく文庫を開くようになったのは嬉しい。むしろスマホを広げても別に特別楽しいわけではなくて、そもそも生きていてもっとも良いもの素晴らしいものに触れようと思ったら、その手段は読書になってしまうのかなという気もする。冷静に豊かさとは何かと向き合ったら、読書をしないわけにはいかないのかもしれない。

 

前回は「これでいいのか」という念が抜けないということを書いたが、やっぱり今も抜けない。大学祭はWeb制作、休学中は自分の任された機能開発と自分のすべてを注ぎ込むことができていた。そのときは自分は生きていた。今は多分生きていない。やるべきことがあろうとなかろうと、終わっていようがなかろうと、何かに打ち込んでいない自分は生きていない。僕だって羊を探したい。羊を探すためには、羊を探す必要性に遭遇しないといけない。しかし、そう簡単には羊を探す機会は与えられない。

待つしかないのだろうか。そして、そのうち打ち込めることも見つかるさ、卒業して医者になったら大丈夫、また打ち込めるようになる、と自分に言い聞かせ、楽観的になるほかないのだろうか。

 

分からない。今少なからず言えることは、同じようにしてブログに書いていた一年前に比べたら心は楽であるということだ。思いつめて混乱していた。それ比べたら、ヒマを持て余すなんて、どれだけ幸福なことなんだろうと思う。